選択の重大性~その2
先に就職活動についての選択の重大性を述べましたが、
それに同等、いやそれ以上に重大な選択は人間関係。
親友、楽友、GF、恋人、配偶者、近所の、
人たち、会社内の同僚や上司、後輩、、、、、。
人によってその生活環境や事情によって様、々。
中には週に数人しか会わないとか、逆に数えきれないほどの人たちとの遭遇
ここで気になる点はたくさんの人と会えばその分、自分にとっていい機会というものは
増えるのだろうか??
私はそうは思わない。対して人と会わなくても、自分で研鑽努力して目標を達成した人は多くいる。この場合その人の行動の判断基準は人間関係が第一ではなかったのでは、、と思う。
たくさんの人と会えば、確かにいろんな情報を幅広く吸収できるけれど、
逆に見れば自分を惑わすマイナス的情報や人間関係にも遭遇しやすく、リスクも絶対的に高くなる。判断力が的確なら別だが、、。
その場合確かにそれがバックホーンになっているのだろうけど、本当の成功できた要因は別にあるのかもしれない。
個人的な度量が大いに推進力となったり、少ないチャンスを確実な判断でものにできていたのかもしれない。
そのように見れば、選択の方向性というものの中で人間関係というものは他の判断要素の単なる一つと見ることができる。
単に友人関係が豊富だというのは、情報の収集力という点では有利に見えるが、
その情報というのも必ずしもすべて有効なものとは限らない。
友人からのアドバイスや同僚からの指摘、、先輩からの指導、、どれも結局それをどう自分なりに昇華できているのかという点に尽きる。
ここで言えることは、いろいろな人間関係や様々な情報、教訓も自分の周囲にどれだけいい要素を誘引しているかどうか、、これは個人の意識的な努力が必要となる。
この違いで個人が目標とする方向、理想とするものに到達する力に差が出る。
その個人の人間性というものの差はここで生まれると思う。
完璧な人なんて
だれもいやしないし、そんな神さんみたいな人は誰から見ても面白くない、、。
いい意味で、立ち入るスキがあるから会話が生まれ、そこに真の人間関係が生まれる。
このように私から見れば、情報と人間関係は同等なものと見なせるし、どちらが優先というものでもない。
何をどう自分なりのものとしていくかは、その個人個人の生きる視点次第だと思う。
自分なりの娯楽を大切にとにかく楽しくできればいい、、然り。
好きなお酒を友人と楽しみながらゆっくりと暮らしたい、、これも然り。
とにかく我武者羅に仕事で成功し、立派な社会的地位を得たい、、、然り。
別に成功者にならなくてもいい、ただ質素でも地道に生活できればいい、、然り。
roadpostはそのそばを通り過ぎる旅人にすべて立派な歩みを要求はしない。
千差万別な森羅万象な世界なのが自然な世界。
善も悪も併せ持つのが自然な社会。
どうしても立派なものに目が向きやすいSNSには警笛を鳴らしたい!!
綺麗なもの、、スマート(私が大嫌いな言葉)なものが最適とは限らない!!