あだ名(愛称)は何処へ、、さんくんだらけの不自然さ

田中さん、山田君、吉田さん、、

上田君、太田さん、前田君、

水本さん、田中君、山田さん、、、

さんくん主義があるときから学校教育の現場に導入されだした。

いつごろからかははっきりしないが、少なくとも20年以前だと思う。

文化省の関係者ならよくご存知でしょう。

そのころ教育の現場でよく唱えられた「人権の尊重」

はっきり言って、小学校以下の精神と感情レベルでこの言葉を理解するのは難しすぎる。直接先生からは「まわりの人たちにやさしく大切にしましょう」と現場では言い換えていたとは思うが、なぜ「人権の尊重」主義がさんくん主義とリンクしたのだろうか?

というより、roadpostなりの分析だが、

確かに「人権の尊重」では子供は理解しにくいし、ではその方針を学校の現場で具体的に進めるにはどうするか、、

と思索の段階で背中を押されるように出された方針の一つが、

その「さんくん主義」だったのだろう、、とroadpostは分析する。

小学校以下の子供たちにその方針として具体的に進めるにはもってこいの方策。

指導する先生にとっても促しやすい方策。

でも体面的には学校でのコミュニケーションは礼儀正しく、一見「人権の尊重」の方針に合致しているように見える。

でも人と人のコミュニケーションでさんくんだらけとなると、それ以上に踏み込んで友達を級友を理解しようとする積極性が養わわれなくなるのでは、、と危惧する。綺麗な言葉だけで人は理解できない。これに近い意味合いはあの論語の中にも登場する。

 

いや従来あったあだ名の世界も学校の外での友人間では健在だよ!

との声も聞こえそうだ。確かにその通りでしょう。

では学校ではさん君で放課後ではあだ名、、こんな二面性をもった生活を小さな頃から植え付けることは将来的にも大きな影響がある。

会社などの社会生活でまずさん君の挨拶をしていれば、まず社会への第一歩は合格だ!!と思ったら大いなる間違い。社会では挨拶は単なる社交辞令で、本当はここから自分がどれだけ積極的に自分の特性を発揮できるかに掛っている。

これにはコミュニケーションでの意見の相違、考え方の相違、仕事の目標の違いなど多くの相違が混とんといろんな社会に発生する。でもここからが大切で他者を大切にしようとすることは、逆に見れば自分がしっかりと様々な側面を主張できなければ相手に理解されないということに合致する。

意見の相違、思想や主張の違いこそが基調でそのぶつかり合いこそが、お互いを高め合う根源となる。

論旨を根源に戻せば、あだ名の効用はつまりその人の「心のピンバッジ」、

 

例えば、「お地蔵さん」というあだ名なら誰もが連想するのは、

「いつも物静かででも堅実でやさしさがある、忍耐強い」というよいうなものだろう。

あだ名はその人の「レッテル」ではなく、自然に培われた礎なのだ!!

どうも教育者はあだ名は悪い意味合いで捉えているのではと思われてならない。

あだ名はその人とまずコミュニケーションをとる上での最短距離を示してくれる大切な人間関係の要素なのだ。

お互い理解度の低い人間関係からはいい社会は期待できない。