何か変だよ、SNS!?


ガラケイからスマフォへ、、、
でも何が変わったのだろう??

口伝えや印刷物⇒ビジュアルメディア⇒デジタルデータの共有
情報伝達の経過や手段が変遷し多岐に渡ることで、
私たちの生活はその情報が増え、その選択も素早く出来るようになった。
それは絶対的な時短とメンタル的余裕へと繋がっていたはず、、。


でも現代でも幾ら最新の情報を得て、効率的に活動しているつもりでも、
生活者の大半が何かに戸惑い、不安感は拭えないのはなぜだろう?

古くはポケットベルが、電話回線のデジタル化、通信自由化に呼応するように
出現した。1990年代に急速に普及したが、まだこのツールは発信者からの
一方向の伝達手段。情報とまでは呼べない、ただ単なる個人の行動と意思の伝達。


でもデジタル化された暗号のような受信表示を理解することで得た、
新たなコミュニケーションのあり方が話題性となった。
情報のデジタル化の創生期と言ってもいい。
このツールの効用は個々の意思伝達の時間(発信者から見て)を短縮させ、
生活全般の時間的有効性を高めたのは間違いない。

 

その後、PHSや携帯の出現でようやく情報の詳細な双方向のデジタル的伝達が始まり、個人対個人から多対多、一度にあらゆる方向への通信(ネット状通信)が可能になった。

表現を変えれば、点対点の世界から、面対面のネット世界へ移行した。こういった情報通信で得たものは、即座に世界のあらゆる情報を収集しより分ける魔力。それも【検索】という魔法の杖で、、、。

 

でもこの魔法は私から見れば、「無駄」という従来の学習努力を省略した結果、

非常に打たれ弱い人間社会をもたらしたのでは、、とも思う。

 

確かに利便性と時間的効率性をSNSは生み出し、経済社会の推進には大きく貢献している。

でも人間は生き物だから「学習」という過程をもし省略してしまえば、

「結果」ばかりを並べられて、お好きなものをどうぞ(^^♪、、、という塩梅で

「過程」という人間として汗を流すべき大切な要素を見過ごしてしまう危険性がある。

 

昨今、あまりにも理不尽な事件が収まらないのは、人間社会には一番大切な

「理性」が貧弱になっているためか、、と思う。

 

この「理性」は人間社会の精神性の要で、これは個々日々の暮らしで

喜怒哀楽、感動、感覚的刺激、友愛、共感など様々な感情的事象から地道に生み出されていくものだ。

これは誰から学習するとか訓練されるとかいうものではなく、

自身の心情に気の遠くなるほどの時間を経て体得する観念だ。

つまり「自身の心の汗と涙の蓄積」の化身、、、。

 

なるほど社会を営む上ではリスクはできるだけ少ないほうがいいし、失敗も無いにこしたことはない。苦労も無いに越したことはない。

SNSが全て理性の貧弱化の元凶とまでは言えないけれど、大きな一因なのは確かだと思う。

私自身も日々の生活でSNSは大いに役立っている。

「ブログサイトでSNSの悪口なんて酷い中傷だ、、何を考えているんだ、、。」

、、、とかいう批判は覚悟の上だけど、

これからもSNSが人間社会には貴重なものだから、自己批判の気持ちも込めての一矢。

皆さんSNSはあくまで道具で、食材でいえば具材であって定食ではありません。

つまりその一つ一つはすぐに食べられないもので、いろんな具材を揃え、

そこから自身の脳と心で判断し情報を『昇華』する道具です。

 

でも万人が見てもはっきりと結果が理解できる事象、

例えば特定の場所、歴史的事物や人物などは端的にはそのものとして捉えていいと思います。

情報社会の指標は人間社会の充実と精神的高揚にあるはずです。

SNSは人間の道具であって教科書ではありません。

 

物事の理解力を高めるには自信の経験の積み重ねが肝心。

決してSNSを頼り切ってはいけない!!