私のふるさと~京都、

私のふるさと、京都の伏見、、と言っても今も住んでいる大切な街。

伏見といえば、いま大河ドラマ

鳥羽伏見の戦いの舞台。

我が町もおそらくその戦の時は、町民が逃げまとい、

大商人は大切な私財を抱えながら、安全な所まで避難していたことだろう。

どこにも逃げ場所がない、貧しい民は家の奥の隅になりを潜めてその戦況を探っていたにちがいない。

特に幕府軍と官軍が最初ににらみ合った「くいな橋」は自宅から西へ1キロ、

もし当時もわが先祖が同じところに住んでいたと仮定すれば、

戦の鉄砲や砲弾の轟音などがもろに聞こえていただろう。

 

でも現在は高層の京セラの本社ビルもそびえる如何にも現代的な街。

明治時代までは存在した南部の巨椋池干拓され、広大な田畑地として広がっている。

 

さて、鳥羽伏見の戦いに戻すと、前途のくいな橋より幕府軍を撃退した官軍は

そのまま南下してほどなくして東へ進軍、官軍の目前には桃山の丘陵地がはっきりと確認できたことだろう。

この桃山丘陵はかっての豊臣秀吉が築城した伏見城がそびえていた。今ではその本丸付近に明治天皇の御陵が、、。

その山麓にあるのが幕府軍が拠点としていた伏見奉行所、、

官軍はそこを目指していた。

この道筋は東西にまっすぐ延びる「大手筋」と今も名付けられている。

大手とはつまりその桃山城の大手門に東に突きあたる、という意味合いで名付けられた。

桃山時代の頃でも当然武士や商人、町民が大勢行き交い賑わっていたにちがいない。

今もこの東西の道筋はその名の通り「大手筋商店街」としてたくさんの店舗が立ち並び賑わっている。

さて、戦いの発端のくいな橋からこの伏見奉行所まで30町も無い距離なので、

官軍はかなりの速さで伏見奉行所に迫ってきたと予測できる。

またこの周辺は有名な伏見の酒どころでもある。

幕府軍も官軍も近辺の醸造所から清酒を調達して、気勢を挙げていたと想像すれば面白い。

でもこの戦いは幕府軍にとっては敗退すれば、そのまま「都落ち」となる

瀬戸際、、双方必死の攻防が展開されていた。

銃弾が飛び交っていたその痕跡も確かに残る歴史的なスポット

が「伏見」そのもの。

その戦からまた少し時を戻せば、あの坂本龍馬が奔走していた場でもある。

かっての浪速(今の大阪)から淀川を遡れば、淀、巨椋池とたどり、

伏見の船着き場があった寺田屋の前に着く。

この寺田屋から高瀬舟に乗り継いで、また遡ればやがて鴨川に合流し、更に上っていけば伏見から80町程で御所付近に辿りつく。

また竜馬が襲撃され辛うじて逃げることができた寺田屋から潜り込んだとされる薩摩藩伏見屋敷までは高瀬川沿いに北に5町もない距離、竜馬はその以前から万一のことがあれば、薩摩藩屋敷へと模索していたのだろうか。

このように秀吉の時代から幕末まで歴史的な話題が事欠かないのがこの伏見。

どこを散策してもそんな空気感を味わえると思います。

 

また余り知られていませんが、桃山丘陵は今でも大変水はけがよく、

最近の大雨や台風でもびくともしませんでした。

崖地も多いのですが、どこも異常が見られませんでした。

それは何故かというと、桃山時代にこの丘陵地を埋め尽くすように建てられたのが、桃山時代の大名屋敷。

この時、当然屋敷内の水はけを考慮して敷地の土壌を改良し建築されたので、

結果以後屋敷群が無くなっても、その土壌は残り、結果水はけの大変良好な丘陵地となった。

江戸時代にはこの付近は城も無くなり、一帯が桃や茶の一大生産地だった。

都にもほど近く、重宝されたに違いないと思います。

城敗れて山河あり、、、皮肉にも侍の名残りが、豊かな農地となったのです。

 

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