私のふるさと~京都、

私のふるさと、京都の伏見、、と言っても今も住んでいる大切な街。

伏見といえば、いま大河ドラマ

鳥羽伏見の戦いの舞台。

我が町もおそらくその戦の時は、町民が逃げまとい、

大商人は大切な私財を抱えながら、安全な所まで避難していたことだろう。

どこにも逃げ場所がない、貧しい民は家の奥の隅になりを潜めてその戦況を探っていたにちがいない。

特に幕府軍と官軍が最初ににらみ合った「くいな橋」は自宅から西へ1キロ、

もし当時もわが先祖が同じところに住んでいたと仮定すれば、

戦の鉄砲や砲弾の轟音などがもろに聞こえていただろう。

 

でも現在は高層の京セラの本社ビルもそびえる如何にも現代的な街。

明治時代までは存在した南部の巨椋池干拓され、広大な田畑地として広がっている。

 

さて、鳥羽伏見の戦いに戻すと、前途のくいな橋より幕府軍を撃退した官軍は

そのまま南下してほどなくして東へ進軍、官軍の目前には桃山の丘陵地がはっきりと確認できたことだろう。

この桃山丘陵はかっての豊臣秀吉が築城した伏見城がそびえていた。今ではその本丸付近に明治天皇の御陵が、、。

その山麓にあるのが幕府軍が拠点としていた伏見奉行所、、

官軍はそこを目指していた。

この道筋は東西にまっすぐ延びる「大手筋」と今も名付けられている。

大手とはつまりその桃山城の大手門に東に突きあたる、という意味合いで名付けられた。

桃山時代の頃でも当然武士や商人、町民が大勢行き交い賑わっていたにちがいない。

今もこの東西の道筋はその名の通り「大手筋商店街」としてたくさんの店舗が立ち並び賑わっている。

さて、戦いの発端のくいな橋からこの伏見奉行所まで30町も無い距離なので、

官軍はかなりの速さで伏見奉行所に迫ってきたと予測できる。

またこの周辺は有名な伏見の酒どころでもある。

幕府軍も官軍も近辺の醸造所から清酒を調達して、気勢を挙げていたと想像すれば面白い。

でもこの戦いは幕府軍にとっては敗退すれば、そのまま「都落ち」となる

瀬戸際、、双方必死の攻防が展開されていた。

銃弾が飛び交っていたその痕跡も確かに残る歴史的なスポット

が「伏見」そのもの。

その戦からまた少し時を戻せば、あの坂本龍馬が奔走していた場でもある。

かっての浪速(今の大阪)から淀川を遡れば、淀、巨椋池とたどり、

伏見の船着き場があった寺田屋の前に着く。

この寺田屋から高瀬舟に乗り継いで、また遡ればやがて鴨川に合流し、更に上っていけば伏見から80町程で御所付近に辿りつく。

また竜馬が襲撃され辛うじて逃げることができた寺田屋から潜り込んだとされる薩摩藩伏見屋敷までは高瀬川沿いに北に5町もない距離、竜馬はその以前から万一のことがあれば、薩摩藩屋敷へと模索していたのだろうか。

このように秀吉の時代から幕末まで歴史的な話題が事欠かないのがこの伏見。

どこを散策してもそんな空気感を味わえると思います。

 

また余り知られていませんが、桃山丘陵は今でも大変水はけがよく、

最近の大雨や台風でもびくともしませんでした。

崖地も多いのですが、どこも異常が見られませんでした。

それは何故かというと、桃山時代にこの丘陵地を埋め尽くすように建てられたのが、桃山時代の大名屋敷。

この時、当然屋敷内の水はけを考慮して敷地の土壌を改良し建築されたので、

結果以後屋敷群が無くなっても、その土壌は残り、結果水はけの大変良好な丘陵地となった。

江戸時代にはこの付近は城も無くなり、一帯が桃や茶の一大生産地だった。

都にもほど近く、重宝されたに違いないと思います。

城敗れて山河あり、、、皮肉にも侍の名残りが、豊かな農地となったのです。

 

roadpost

 

あだ名(愛称)は何処へ、、さんくんだらけの不自然さ

田中さん、山田君、吉田さん、、

上田君、太田さん、前田君、

水本さん、田中君、山田さん、、、

さんくん主義があるときから学校教育の現場に導入されだした。

いつごろからかははっきりしないが、少なくとも20年以前だと思う。

文化省の関係者ならよくご存知でしょう。

そのころ教育の現場でよく唱えられた「人権の尊重」

はっきり言って、小学校以下の精神と感情レベルでこの言葉を理解するのは難しすぎる。直接先生からは「まわりの人たちにやさしく大切にしましょう」と現場では言い換えていたとは思うが、なぜ「人権の尊重」主義がさんくん主義とリンクしたのだろうか?

というより、roadpostなりの分析だが、

確かに「人権の尊重」では子供は理解しにくいし、ではその方針を学校の現場で具体的に進めるにはどうするか、、

と思索の段階で背中を押されるように出された方針の一つが、

その「さんくん主義」だったのだろう、、とroadpostは分析する。

小学校以下の子供たちにその方針として具体的に進めるにはもってこいの方策。

指導する先生にとっても促しやすい方策。

でも体面的には学校でのコミュニケーションは礼儀正しく、一見「人権の尊重」の方針に合致しているように見える。

でも人と人のコミュニケーションでさんくんだらけとなると、それ以上に踏み込んで友達を級友を理解しようとする積極性が養わわれなくなるのでは、、と危惧する。綺麗な言葉だけで人は理解できない。これに近い意味合いはあの論語の中にも登場する。

 

いや従来あったあだ名の世界も学校の外での友人間では健在だよ!

との声も聞こえそうだ。確かにその通りでしょう。

では学校ではさん君で放課後ではあだ名、、こんな二面性をもった生活を小さな頃から植え付けることは将来的にも大きな影響がある。

会社などの社会生活でまずさん君の挨拶をしていれば、まず社会への第一歩は合格だ!!と思ったら大いなる間違い。社会では挨拶は単なる社交辞令で、本当はここから自分がどれだけ積極的に自分の特性を発揮できるかに掛っている。

これにはコミュニケーションでの意見の相違、考え方の相違、仕事の目標の違いなど多くの相違が混とんといろんな社会に発生する。でもここからが大切で他者を大切にしようとすることは、逆に見れば自分がしっかりと様々な側面を主張できなければ相手に理解されないということに合致する。

意見の相違、思想や主張の違いこそが基調でそのぶつかり合いこそが、お互いを高め合う根源となる。

論旨を根源に戻せば、あだ名の効用はつまりその人の「心のピンバッジ」、

 

例えば、「お地蔵さん」というあだ名なら誰もが連想するのは、

「いつも物静かででも堅実でやさしさがある、忍耐強い」というよいうなものだろう。

あだ名はその人の「レッテル」ではなく、自然に培われた礎なのだ!!

どうも教育者はあだ名は悪い意味合いで捉えているのではと思われてならない。

あだ名はその人とまずコミュニケーションをとる上での最短距離を示してくれる大切な人間関係の要素なのだ。

お互い理解度の低い人間関係からはいい社会は期待できない。

 

 

 

 

Mrサマータイム~その2,roadpostの提言

roadpostは単なるいい加減なジョガーだが、

こんな私でも真夏でのスポーツの過酷さ、

特にアウトドア競技の場合、アスリートも観客も暑さで集中できない事態となるのは

目に見えていると思う。

とにかくこの真夏での大きな大会の開催は絶対さけるべき、、

というのが持論、、これは一歩も妥協できない。

ただアウトドアでもサーフィンやボードセーリングなど自然環境に大きく影響される競技の場合、もしその競技スポットが真夏の方が安定していて競技的にはいいのなら、

話は別。それ以外は絶対避けるべきと思う。

 

この論調でいけば競技によって最善な環境と季節を選ぶと仮定すれば、

競技によってその時期はバラバラとなり、そのエリアも分散されるというか、

場合によっては一国ですまない事態となるだろう。

でもこの方向性はroadpostとしては願ったりで、つまりその年のオリンピック全体のホスト国があってその周辺国も巻き込んだ広大なイベントが成り立つ。

オリンピックある時期の17日だけではなく、一年中そのホスト国や周辺国で様々な競技が分散して開催されることになる。

 

そもそもある国の特定の都市か町だけですべての競技をこなそうとすること自体、

よくよく考慮すれば無理があるはず。

これはいままでのオリンピックでも、「なんでこの競技がこんなところで??」

と疑問というか違和感を覚えたことはたくさんあった。

roadpostだけでなくみなさんも頷いていただけるでしょう。

 

さて話を本筋に戻せば、「2020広域オリンピックinEastAsia」~上記の論旨より仮称~

これが実際に開催されるとホスト国はその一年中どこかで競技があり、

五輪旗も国中年中はためくことになる。

その周辺国は特定の競技の開催時期だけその都市か町に五輪旗がはためき、

聖火もホスト国から分けられたものが灯される。

アスリートも最適な時期に適切なステージで競技ができることで、

必ず最大の効果、そして記録が期待できるようになる。

偉大なるオリンピックという競技会を周辺諸国と共有することで、

国家間どうしの融和にもなるだろう。

 

日本開催競技、陸上、バレーボール、柔道、空手、等

韓国、テコンドー 北朝鮮、サッカー 中国、卓球 シンガポール、ボードセイリング

タイ、ボクシング、ハンドボール 台湾、バトミントン 

こんなのでどうでしょう。

当然、開催前の聖火はこの開催諸国を駆け巡ることになり、近隣諸国どうしの

国民間レベルでの融和が図られるはずだ。

百害なく

て偉大な一利あり!!

 

ぱとロン第一の愛OCや次回選挙第一のバッチ族に物申す!!

自らの保身よりまず競技に実際に立ち向かうアスリートを守れ!!

アスリートの体と自信、誇りを守れ!!

それが回りまわって自分たちだけじゃなく、国民、国家、そして周辺の国家間の融和にもつながるはずだ。

次はオリンピックの運営自体の問題を分析したい。

Mrサマータイム~嗚呼なぜ夏の日?

roadpostにとって、ジョギングは無くてはならないもの。

快適な風を受け、心地よい汗を流す。

しかしこれがこの夏の場合、勝手が違っている。

ドライヤーの熱

風みたいな風を受け、ダラダラと不快な汗が堪らない。

 

ましてや、これが一流のアスリートならもっと不愉快さを感じているはずだ。

でも一流ならこその過酷な練習環境も経験してきたに違いないだろうし、

そんな環境でも克服して記録に臨んでいくだろう、、。

でも一流だからこそ記録を出すためにはより良い環境を望んでいるはずだ。

 

もうお金のためなら何でも押し黙る、、、、ていうのは辞めにしませんか?

政府も国家も国民もメディアも、、そしてアスリートも。

オリンピックをやりたいから、理不尽なことも押し黙る、、、

って誰が決めたんだ##!!

オリンピックのためにアスリートがあるんじゃない!

アスリートが集い正々堂々と平和裏に競技に立ち向かい、

お互いの健闘を称えあう。

これが本来のオリンピックの正義だったはずだ。

かってのギリシャではそのオリンピックの間は周辺諸国の間の

紛争や戦争、イザコザも休止し、アスリート達が集中できる環境を立ち上げた、、と聞いている。

それが現在ではアスリートの気持などそっちのけのただのお祭り騒ぎと化している始末。こんなことではアポロンの神々も涙していることだろう。

でもすべてを悟っているはずの肝心のアスリートまでが、その歪んだ風潮に同調しているのはなぜか??

それはやはり「お金」の問題だ。

一流と呼ばれて有名になって初めて食べていけるのがアスリートの現状。

でもそれもたまたまテレビ受けが良かったり、フェイスの良しあしだったり、

ほとんどタレント的しか世間は見てくれない。

でもそうしないと食べてはいけないのが現状。

そうして有名になってもてはやされても、それが続くのは長くはない。

多くのアスリートもそんな矛盾に苦しんでいるはず、、だけど声が出せない。

 

ともかく、トップアスリートに最高の結果を期待するなら、競技環境、季節、アクセス、治安などを完璧に選択するべきだ。

でも今やスポーツ界の最高峰のステージと目されるオリンピックの場は、

全ての面に亘ってお金が優先されるテイタラク

あいおおしいの最大のパトロンさんは、

あえてアスリートが最も嫌う環境や季節を選ぶことに人間的な理不尽さは

微塵も感じないのだろうか?

それに黙認し更に輪をかけるようにアベボンボン政府はなんの思いつきか知らないが、

世にサマータイムという制度がある、これをオリンピック時に採用しよう、、

とつぶやいている。

これがアスリートを救済する制度なのだろうか?

この提案はあくまで今の酷暑の季節でのオリンピック開催を前提としていることに

その不可解さがある。

様々な事情を考慮したうえで、どうしてもこの季節で開催するしかない、、

というのなら、その苦肉の策の一つとして「サマータイム制度」を挙げたのなら意味は分かる。しかしどうもこのミスったサマータイム制度は世間の批判をかわすための狡猾で卑怯な提案だ。

昨今のメディアがとるべき姿勢は甚だしく精神的に脆弱で貧弱で、

世間の井戸端会議の類があえてメディア的になったようなものだ。

迷ディアはなぜアスリート第一に思慮し分析した上で、論評を進めないのだろうか?

そのうえでどうしてもサマータイム制度が避けて通れないのなら議論的に納得はできる。でもその第一の大切な分析を怠慢して、サマータイム制度そのものの分析からその先に論評を乱暴に進めようとしている。

メディアは本当に迷ディアそのものだ。

一大パトロンを当てにしなくても、別にオリンピックでなくても、

世界トップクラスの大会はどんなスポーツでもありえる。

もうすでにトップクラスのアスリートがオリンピックそのものに価値を置かなくなりつつある。

いずれどんな国家もオリンピック開催に重きを置かなくなり、

アスリートからも無視される時代がやってくるだろう、、

いやもうその気配は始まっている。

 

勧告、指示!?どうせよというのか##

地震、かみなり、火事、お野次?

そして大雨、台風も含めて、最近は災害が連続し、それも過激を極めている惨状。

温暖化も一因だろうが、地球上の気象状況が全体的に過渡期に差し掛かっているとroadpostは推測する。

それでも人間は何とかそれを覚悟に受け止め、この地球上に住むため、何とか対処するしかない。

 

では、どんな時どんな風に対処するべきか、これについてはすでに官公庁を筆頭に

防災に関する各セクションが「ハザードマップ」という見取り図で対処法を告示している。

もちろん個々の居住区、ビジネスエリア、工業エリアなどエリアごとの防災マップ、

災害別の対処法など過去の災害履歴を踏まえ、練られている。

 

でも残念ながら現実的にはこれらの災害時の対処法は、

実際のところほとんど対処のしようがない、、のが実情。

と言えばライター的には全く無責任とroadpostが見られてしまうが、

学者さんや政治家さんを含めて大変偉い方々が立派な災害対処マニュアルを構築しようとも、それはいざというとき実際に一市民が行動を起こすには危険極まりない事態となる。

第一、避難場所と指定されている場所が各個人宅より安全という保障はどこにあるのか?

そして避難する過程での安全は個人の責任であって、公的には誰も保証してくれないはずだ。個々の災害保険にはそういったものもあるだろうが、、。

大抵避難所は地域の学校が指定されているが、なぜ自宅の方が快適なのにクーラーエアコンも不整備な処に身を委ねなければならないのだろうか?

それも地域の住民が大挙押し寄せ、吐息熱気、トイレの問題、

第一に深刻なのは避難所ではプライバシーの保護ができないし、避難に向かう住民はこれを覚悟の上行動しなければならない。

肉体的生理的な問題より、精神的な問題は後に尾を引く要因が大きい。

食べ物、飲料、トイレなどの問題は充足時間の長短はあるだろうが、

これは一定の充足ラインに達したら、あるレベルでの解決はできる。

でも先に挙げたプライバシーの問題は深刻でどんなにその避難所を避難住民のために

環境を上げようとしても、元来居住用のエリアでない場所を急遽整備しようともしようがないのが実情。

 

テレビやラジオ、ネットでも緊急時の勧告や指示は飛び交っているが、

果たして実際どのくらいの比率の住民が避難行動に向かうのだろうか??

「XYZテレビです。〇〇町は洪水の危険が高まっています。一刻も速く避難してください。お近くの障害者、高齢者の方にも声を掛けご一緒に、、、」

 

いくら地域の学校などでも数千人、ひょっとすれば一万人以上の収容力はあるのだろうか?!!そしてその受け入れる体制は取れているのだろうか?

まさかそんな極端な事態は想像したくもないが、そんな事態、

まるでかってのアウシュヴィッツではないか!!!

 

roadpostは単なるライターだから適当なことを言ってりゃことが済む、、

と皆さんも思われているはず。

過去に阪神淡路大震災、以後の東日本大震災、それ以外も大小多くの災害が連続している日本。

でもその都度、ニュースの画面に映し出されるのは、

相変わらず、不便極まりない避難所での深刻な場面、、

それでもおそらく「大いなる存在」にメディアは「忖度」し、

比較的軽微な映像を選択している。

実際に避難されている方々の声は一部しか全国には届かない、。

いやSNSがあるじゃないか、、とかの声が聞こえてきそうだが、

実際SNSが正常に機能し、情報が円滑に流れ出すのは、

人々が生存の危機存亡に見舞われているような時ではない。

災害で物理的に情報システムも障害を受け、外部からのアクセスも過密になる。

いつまでも同様な深刻な場面を見続けなければならないのだろうか?

 

そんなこと日本に限ったことじゃないじゃないか、、

とかいう批判は当然です。

でもこんな技術も産業も人的な資源も揃った日本でも、

なぜ災害に対する対処法は画期的な改善が見られないのだろうか?

いや個々に様々なや技術的改革はなされている、、と

公的な方々はおっしゃるでしょう。

でも何かの歯車がかみ合っていないような気がする、、いやかみ合っていない、、

と断言したい!!

 

ここではroadpostのつぶやきに収めておきます。

具体的な提言は次回より進めていきます。

 

喝!!!

roadpost

 

 

 

 

ただひたすらに、、前へ前へ、、、異放人roadpostの俳廻

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」

roadpostには心身をシャッフルし、結果モチベーションを上げる方法がいくつかあります。

その一つがもう30年以上も続けているジョギング、、。

いやマラソンと言いたいのですが、その内容が恐れ多くて、、。

 

走りたい時に走りたいだけ気のままに、、そして時計もはめず計らず、、

東西南北好きな方向にいや闇雲に気持ちの進むままに、、

おなかが減ればパンも食べるし、レース中に衝動的にレースを中断して、、

コース途中で見つけた茶店で草餅を焼いてムシャムシャ、、、。

(このレースは下から2番目の記録的なものでしたへへへ)

そうこれが僕なりのムシャ修行?です。

 

roadpostの修行は日常と非日常の分別がつかない無遮修行。

心をフルオープンにして何も遮るものがない状態にして、目的も体裁も理屈も

何も心を遮断しない貴重な時間です。

他の精進立派な人が座禅や滝にうたれたりするのと同じ?理屈がここにあります。

「無心」という点で、。

普通人が何かをアクションを起こし、「無心」にそれに取り組む場合、

それは目的のある意識的な無心のはず、、。

 

でもroadpostの無心は本当の無心?!

走りだせばもう会話する相手は空と風、そして目の前の道、、。

おそらく見た目はだれでも普通のジョギングおじさんだけど、

今日はどんなタイムと距離を刻もうか、、とか、

 

どんなコースを選ぼうか、、とか、普通のジョガーは当たり前に考えることも、

roadpostにとってはそんなことどうでもいい話。

全く「何も考えていない」無心です。

周囲には「これは放心状態」と手っ取り早く言っているけれど、

放心、、とはちょっと違っていて、放牧ならぬ、放人と言っていい。

柵から放たれた牧畜が、草むらに散らばる景色、、あれに感覚的には近い!!

ちょっと変わり種に見られることもあるので、

「異放人」と称してみよう!!

 

異放人にもわからない、、というか頭と心が思考休眠状態にジョギング中は陥るので、

徘徊おじさんと客観的には判断できるはずだけど、

だてにジョギングウェア姿なのでお巡りさんもお医者さんも声を掛けてくれない。

でも時間が経ってくると流石の異放人もてきて、お腹も減ってきて、

コンビニへGO!!

お腹をちょっと満たせば、頭が少し復活して、、

でもやっぱり距離やタイムなど普通ジョガーが意識すべき点は何もなし。

時々頭に浮かぶことは、、いややっぱり何もない!!

走りながらふと目に浮かぶことは、いま走っている場面の空や雲、

川や町の景色、、これらを心のキャンバスとして気ままに描いています。

絵具も筆も何も要らない、心のキャンバス。

これにも飽きてくる?とちょっとした短い言葉や物語が浮かんでくる、、。

そういや、過去の著名な文化人や思想家には散策や旅行で貴重な題材を得たケースが多く見られる。

 

いややっぱりroadpostに浮かんでくるのは目の前の美味しそうな

シュークリームみたいな雲とソーダ水みたいな青空、、。

目の前にひろがるデッカイ雲と空。

 

 

 

 

 

代理満足の危うさ~ストレス解消の正常な在り方

世の中には

様々な事象で現状的に実現不可能な状態を

緩和あるいは打破するためのいろんな手段やサービスが用意されている。

 

いちばん身近な例で言えば、ゲームやスポーツのジャンルにそれは表される。

まずゲームでは古くからゲームセンターでの体感的など。

ジャンル的に言えばモータースポーツや戦争ものの大型ゲーム機など、、。

世の中高年以前の世代なら大抵は頷けるはず、、いやいや今でもそういったプレイには現役だよ!!という元気な中高年の人たちもたくさんいることでしょう。

 

でも現在のゲームプレイの中心はいたって個人のファミコンスマートフォン

タブレットなど、、。そしてその内容は競技性、対戦性がないゲームも多く多岐に渡っている。世界中に対戦相手を持つセミプロ、プロクラスのゲーマーもいれば、単に気の向いたときだけふらっと楽しむ静かな趣味レベル以下の大半の人たちも、。

でもゲームは単に楽しみの娯楽的な意味合いがほとんどで、「ストレスを解消したいからさあ!!今からゲームを始めよう!」とか言う人はまずいないだろう。

鬱憤、ストレス、精神的疲労、不満等々⇒気分転換、楽しみ、運動、精神的発散、満足感

こういった個人の精神的な健全な流れを進める一つの手段としてゲームの存在があるなら何も問題はないが、ゲームそのものがもたらす心理的精神的な問題があるならその根は深く、見過ごすことはできない。この点については後程に、、。

 

でもこのテーマで僕が特に問題としたいのは、ストレスをある手段で活力や意欲の再生のために昇華させられるかどうか、、。

 

だれでもその日常でふと気持ちを落ち着かせたり、逆に高揚させたいとき、

その方法は時と場所で全く異なっていて、

そして人によってもそれは様々。

それは単に娯楽やスポーツ、飲酒など嗜好の範囲に留まらない。

仕事がうまくはかどらない時、猶更その仕事に埋没、没頭して突破口を見出そうとする猛者も、、、。

つまりストレスの解消の在り方は、こんな場合はこれをしなさい、飲みなさい、、

とかいう薬の服用的マニュアルは通用しないということ。

好きな行動や趣味を続けていることで、自然とストレスは解消できているのが大半の日常といえる。

roadpostの場合これは好きなコーヒーとジョギングでしょうか、、、。

ああ憂鬱だストレスだとか意識せずに勝手に手はコーヒーカップをつかみ、

スニーカーで足は適当に走っている。

ほとんど日常の連続の一コマなので、いつストレスは鬱積し解消できているのか、

自分では全く分析のしようもないのが現実。

 

つまりストレスとその解消は心のスイッチをいちいち切り替えるようなものではなく、

roadpostなりの思考法は、、、

自分の中にだれでも明と暗、右と左、寒と暖、切り替えのスイッチを持っていて、それが3つもそれ以上のチャンネルを持っているメンタル器用な人もいるということ。

そしてそれぞれのチャンネルの波長はオンオフの関連ではなく、

それぞれの波長は内面で躍動していて、知らず知らずに自分がそのときどきに合ったチャンネルを選んでいるのでは、、、。

こういう思考法ならその時々で優劣はなく、どれだけその選んでいるチャンネルが有効に働いているかどうかに掛かっている。

だから自分をコントロールできる人はこのチャンネルの選択が自然でかつ鋭い人。

 

だから逆に泥沼にはまり込むような人は、このメンタル的切り替えが不器用で

下手をすれば性格破壊に陥ってしまう。

例えば野球観戦で贔屓のチームが上手くいかず、飲み友達とけんかを始めたり、

仕事の挫折で、ついつい深酒酩酊、下手をすればアルコール依存症にも。

こんな場面は過去に誰にでもあるだろうけれど、これが連続することで、

精神的肉体的に問題が発生する。

これがもし先に書いたゲーム機の問題なら、そのゲームの内容と質にもよるが、

そのゲームのまぼろしの世界を実現しようとする妄想に襲われることがある。

下手をすれば、他者を巻き込んだ深刻な事件に発展する危険性もある。

 

過去に国家レベルでの鬱積した社会を打破しようと、そこから民族主義を利用し、

政権を握り第二次世界大戦を起こしたナチスの例がある。

だれにでも共通する暗部を攻撃の対象と捉え、自らを正義としてやまない世界。

ユダヤ少数民族を攻撃の対象とそのスローガンを流し続けることで、

国民の意識を自然に麻痺させナチスはその政権のいいような方向に向けていった。

これは近代以降の最大の国家的代理満足といえる。

これが日本では皇室を祀り上げるこ

とで、天皇を神格化し、国民共通の幻影を抱かせた当時の軍部と産業、産軍複合体の危うい展開と悲惨な結末。

 

roadpostが掲げたチャンネルが国民レベルで一致した時の危うさ、、。

過去のどんな歴史でもこのチャンネルの選び方とその推移をとらえれば、

その原因の分析は分かりやすくなるはず。

 

全人類の安穏、世界平和はどんなチャンネルのもとに進めることができるのだろう。