街の灯り、星のきらめき

f:id:roadpost:20180711105355j:plain今週のお題「星に願いを」

街灯りの雑踏の中で星の灯を想像するのは容易くない。

 どんな人でも☆星そのものに託す願いは、その願い方は様々、、。

どんな場所でもどんな場面でもその託し方は千差万別、、、。

大きな願い、ささやかな希望。

 

古代いやおそらく原始時代より夜空にきらめく星々は、

人々の祈り、希望の象徴だったにちがいない。

現在自分がおかれた場所でその現状で、このようにあのようにと何かを変えようとするとき、

自分の力を超越したものを必要としたとき、

地上ではなく天空から地上を照らす太陽、暗闇でも静かに夜空に浮かぶ月、

そして満天に煌めく星々、、

これらを自然と温かさや明るさとして体感することで、

日々その恩恵を自然と学習し、感謝したにちがいない。

特に太陽や月はその動きや傾き方など変化するのに対し、

星はその天球上での位置は一定でその瞬き方の度合いは違っても、

間違いなく仲良く並んで瞬いている。

このことに誰もが自然と気づき、人間を遥かに超越したものを感じ取っていたにちがいない。

だから星々にたいする崇拝は、古代から呪術、占星術、そして宗教へと発展していったのは誰もが納得するところ。

具体的には数多くの国々でその国旗には、

太陽、月、星などのデザイン、文様が使われている。

 

それらの国家どうしが、過去に数多く戦火を交えたことを、

天空の森羅万象の有象無象の神々はどう眺めているのだろうか、、、。

胸に黄色い星の紋章を付けて抹消された膨大な人々。無残、無念、無言、沈黙。

 

今迄、身近に応えてくれそうな漠然とした予感を、

星々に対し、誰もがそのささやかな煌めきに感じ取っていたのだろうか?。

きっとそうに違いない。でなければ、万国共通して星々を崇拝するようなことにはならなかったはずだ。

 

さて、文学の世界でも天空の星をテーマとした著作は数知れないが、

中でも有名なのは、フランスのサンテグジュペリ(作家、飛行士1900-1944)作の

星の王子さま

この作品は寓話の世界にしては人間そのものの存在の在り方を教えれくれる場面が、たくさん見られる。

その中でも第14章のこんな話は参考になる。

王子様が5つ目にたどり着いた惑星は、街灯が一本立っていてその点灯夫が一人いるだけのとても小さな惑星。

~街灯を点けることは星を一つ生み出すこと、花を一輪生み出すことだから。街灯を消すことは星や花を眠らすことだから。これはすてきな仕事だ。すてきだということは役に立っているということだ。~星の王子様、集英社文庫

図らずも、生きる意味を様々な場面で読者に問いかけてくるこの作品は、

「星に願いを」というテーマにぴったりとフィットするものなので取り上げました。

説教じみた文節はなく、王子様が訪ねて出会う色々な惑星の住人が要所で意味深い言葉を発する、、。

そこから読者はどう感じ、どう解釈するのか、、。

実はこれ私roadpostの愛読書なのですが、読むごとにその感じ方が違っているので、

だからこれは一見おとぎ話の作品のようで、一種の教養書のように思います。

 

星や神様になんでも頼めば済むような安易さではなく、

自身やその身近になんでもいいから心のよりどころを見出せば、、

それが、その行為、意識そのものが、心の星々の煌めきとなって、、

自身に助けとなるでしょう。

 

あいにく今年の七夕は悪天候が災いしてとんでもない事態となりました。祈り。

でも心の星々、心の拠り所を一人一人見出せば、、

小さなことからでも何かかなうはず。

先の星の王子様の中の点灯夫のようにただひたむきにその小さな惑星を照らし続けること、、、図らずも日本の仏教にも「一隅を照らす」という理念があるように。

お互い身近なものどうしが、その足元を照らしあえれば、

つまずくことなく歩めるはず、、。

これが真の心からの「星に願いを」。

 

 

選択の重大性~その2

先に就職活動についての選択の重大性を述べましたが、

それに同等、いやそれ以上に重大な選択は人間関係。

親友、楽友、GF、恋人、配偶者、近所の、

人たち、会社内の同僚や上司、後輩、、、、、。

人によってその生活環境や事情によって様、々。

中には週に数人しか会わないとか、逆に数えきれないほどの人たちとの遭遇

ここで気になる点はたくさんの人と会えばその分、自分にとっていい機会というものは

増えるのだろうか??

私はそうは思わない。対して人と会わなくても、自分で研鑽努力して目標を達成した人は多くいる。この場合その人の行動の判断基準は人間関係が第一ではなかったのでは、、と思う。

たくさんの人と会えば、確かにいろんな情報を幅広く吸収できるけれど、

逆に見れば自分を惑わすマイナス的情報や人間関係にも遭遇しやすく、リスクも絶対的に高くなる。判断力が的確なら別だが、、。

その場合確かにそれがバックホーンになっているのだろうけど、本当の成功できた要因は別にあるのかもしれない。

個人的な度量が大いに推進力となったり、少ないチャンスを確実な判断でものにできていたのかもしれない。

 

そのように見れば、選択の方向性というものの中で人間関係というものは他の判断要素の単なる一つと見ることができる。

単に友人関係が豊富だというのは、情報の収集力という点では有利に見えるが、

その情報というのも必ずしもすべて有効なものとは限らない。

友人からのアドバイスや同僚からの指摘、、先輩からの指導、、どれも結局それをどう自分なりに昇華できているのかという点に尽きる。

 

ここで言えることは、いろいろな人間関係や様々な情報、教訓も自分の周囲にどれだけいい要素を誘引しているかどうか、、これは個人の意識的な努力が必要となる。

この違いで個人が目標とする方向、理想とするものに到達する力に差が出る。

その個人の人間性というものの差はここで生まれると思う。

完璧な人なんて

だれもいやしないし、そんな神さんみたいな人は誰から見ても面白くない、、。

 

いい意味で、立ち入るスキがあるから会話が生まれ、そこに真の人間関係が生まれる。

個人的には人間性醸造される。

 

このように私から見れば、情報と人間関係は同等なものと見なせるし、どちらが優先というものでもない。

 

何をどう自分なりのものとしていくかは、その個人個人の生きる視点次第だと思う。

自分なりの娯楽を大切にとにかく楽しくできればいい、、然り。

好きなお酒を友人と楽しみながらゆっくりと暮らしたい、、これも然り。

とにかく我武者羅に仕事で成功し、立派な社会的地位を得たい、、、然り。

別に成功者にならなくてもいい、ただ質素でも地道に生活できればいい、、然り。

 

roadpostはそのそばを通り過ぎる旅人にすべて立派な歩みを要求はしない。

千差万別な森羅万象な世界なのが自然な世界。

善も悪も併せ持つのが自然な社会。

どうしても立派なものに目が向きやすいSNSには警笛を鳴らしたい!!

綺麗なもの、、スマート(私が大嫌いな言葉)なものが最適とは限らない!!

 

 

 

 

右か左か、それとも後退か、、、~選択の重大性について

世の中のあらゆる物事を決める、選択する場に至ったとき、

人はそれをどう判断し決断するのだろうか?

 

日常的には外出で買い物の場での商品の選択、

これは日用品なら大した影響はないはず、中には洗剤が欲しかったのに間違ってボディソープをうっかり買ってしまったとか、、

このくらいなら又買い足して事足りるし、笑い話的なレベル。

でもこれが高額な商品、たとえば車や住まいなどなら後々大きな影響が出てしまう。

場合によっては家族仲が険悪になる場面も多々あるでしょう。

車なら5~10年、住まいなら賃貸ならまだ切り替えは速いが、持ち家などどなると

その買い物の重大性は長期的なものになる。

もし手早い対応で切り替えられたとしても、心理的な影響、後遺症は簡単には消し去ることはできない。

 

これら現物の物的商品なら、そのように対象の商品の違いや金額の差で影響力が違うだけだし、生活や体験から学習した判断力で大半は以後カバーできる類だと思う。

 

でもこれが、自身の仕事や社会的活動などの選択となると、大いにその選択の重大性は

様変わりする。

確かに住まいの選択などから仕事などにも影響は全くないとは言えないが、

例えば実家から離れた違った環境の町へ移った時、その地方の社会的産業的背景の違いから、仕事の選択やその活動内容まで差が出てしまうケースは多々あるはずだ。

でも住まいや社会環境の変化は慣れるのに時間はかかるが、そこに至るまでどれだけ我慢ができるかという問題に行き着くとも言える。

 

ここで問題なのは、

まず特に学生で就職活動の場面で自分の将来に向き合う場面にいたった時、それに個々はどう向き合うだろうか、、という点。

これは個人の置かれた事情により、その重さの度合いは異なるが、就職というか社会活動に出るということは、その後多大にその個人がその場面で精神的、時間的なエネルギーを注ぐこととなる。

このことなどは人生の一場面としても大きな影響力を持つことになる。

でも今どき再就職も在り来たりなご時世、合わなくなったらまた仕事はネットでも探してまた就職活動するさ、、と多くの学生や若者は思うだろう。

外国、特に欧米なんかは転職は日常茶飯事のことぐらいに軽く見ているなら、はっきりとその解釈は間違っていと断言したい。

メディアがその「日常茶飯事的な転職」を謳っているのは、あくまで特化突出した才能と実行力を持つ一部の青年実業家達を暗に賛美した表現。

実際の圧倒的多数の若者は身につかないうちに次から次へと職を転々としているのが実態。

果たして今の日本社会の実情は正規雇用がままならず、アルバイトを転々とし、いつのまにか30代40代をむかえている社会人がいかに多いことか、、。

このままでは日本社会は個人的には個人資産の蓄積もままならず、社会的産業的にみてもスキルや技術の蓄積や向上は全く見込めず、日本社会全体のパワーが退化劣化するばかりだ!!

かって技術大国と自画自賛しその通り他国もその実力を認めていた日本も、

いつの間にか国レベルでのGDPや産業面での競争力などどんどん後塵を拝すことになってしまった。

 

いま日本に求められるのは現状にもがき必至で他国に追いつくことではなく、

今ある国内の有形無形の様々な社会的資源を最大限生かすことだ!!

だれが見てもかっての高度成長期の再来なんて夢のまた夢、、。

としたら発想の大逆転がどうしても必要で

例えば経済成長は犠牲というか目を瞑るくらいの決心で、

とにかく長期的には万人が公平平等に暮らしていける、外国の人も羨み移住したくなる、魅力的な国創りなど、、。

まるでどこかの社会法人や宗教団体のテーマポスターみたいな方針が理想だ。

やがて凛とした自己保持だけを願う政治家や官僚の人たちはお役御免で、

それらはいまの情報システムにそのほとんどが置き換えられる。

ドイツの連邦制やスイスの社会制度なども参考にして、地方自治が本当に生き生きとしたその連合体のような国家を目指してほしい。

日本は島国だからいずれ「アジアのスイス」つまり東洋の永世中立国を目指すべきだ!

 

国内にクーデターや内戦など全く望む人はいないだろうが、

もしこの今の社会、政治情勢を見過ごせば、他国から見ても全く魅力も感じられない

「木偶の坊国家」と称されるに違いない。

 

 

 

roadpost(道しるべ)の道標

変なタイトルでも笑わないでください。

これはまず自分に対しての道しるべであって、

人に対して何か教えてあげようとか言うつもりではありません。

何も中身がない物からは、何も説得力がないからです。

 

まず自分でもがき、戸惑い、結果間違っていても、

また元のroadpostまで戻って修正。

そうすりゃ今度は多少でもマシな道が拓ける。

そんな繰り返しが、泥臭さが結果、迫力説得力を生み出す!!

 

果たして万人向けのするいい情報の道が、本当にいい道なんだろうか?

ひょっとして誰も辿っていない寂莫とした道にも、いいものが転がっているかもしれない、、「急がば回れ」の例えもあるし、、、

逆に、絶対多数の道がひょっとして悲惨な結果に繋がっているかもしれない。これは先の大戦時日本が歩んだ悲劇の歴史が証明している。

 

昨今の世情について感じるのは、得てして心地よいもの、きれいなもの、

そしてスマート(利口)さを求めすぎていないかどうか、、、。

そういや、スマートフォン、スマートインター、スマートビジネス、、、

スマートニュースなんてのも、、、。

世間には「スマート」という言葉が氾濫しすぎているようだ。

もし何もかもがスマートになるなら、それは本当の人間の有り様では無くなってしまうんじゃないでしょうか?。

 

ちょっと視点を変えれば、世間で昨今特に寺社で大変律義に規律よく礼拝をしている参拝者が、以前と比べ目立つようになってきたように思われる。それも若者にも目立ってきている。

以前は熱心な信者か右的な人たちかだったけど、今や当たり前の普通の人たち、

それも若者にまで当たり前のようにある方向では、規律なるものが復活てきている。

いい傾向なのになんて失礼な!!と憤慨されるのは目に見えていますが、

特に私roadpostは先の大戦の体験世代から直接いろんな教訓を受けてきたので、

国家社会体制が現在は違っても、几帳面なほどのいろんな規律というものに、

すごい不安感や抵抗を感じてしまいます。

なるほどその傾向の理由の一つに書籍があります。

ここ最近、観光の振興の意味合いもあるんでしょうが、寺社関係の書籍、

単なるいろんなスポットの案内から参拝の仕方までいろいろな情報を盛り込んだ本がたくさんあります。

これらに自然に感化され、参拝の礼儀までこなしてしまうのでしょう。

別に思想的な偏りなどではなく、自然に何の違和感もなく規律を遵守するのでしょう。

 

でも戦前、結構穏やかな「大正ロマン」とか称されたほど華やかな世相の時もあったのに、観る見る間に昭和の泥沼にはまり込んでいった日本、、。

そうなったのは日本全体が自然に少しず偏った方向に辿ったからです。

「みんなで歩けば怖くない!!。」こんな文句が流行りましたね。

でも道が間違って入れば、結果大変な末路が待っています。

だからこそ、右へ左へ、東へ西へといろんな道が用意されている社会が健全な方向だと思います。

振り返れば20世紀の60年代70年代の日本は、いや世界的にも右翼左翼、入り混じって羽陽曲折があって、騒々しく時には危険な時代でもあったけど、

世間の思想信条は自由闊達で風通しがよかったように思います。

ある意味、世界全体がどっちへ行こうかどうしょうか右往左往していた、今から振り返れば分かりやすい時代だったのでは。

 

でも現代は一見情報が豊富でも、絶対的に何を信用すべきか常に迷ってしまうような、

迷走社会、、。

確かな道を指し示すべき人たちが、信念をおろそかにし、社会的遭難者を多数生み出しているのが現状化と思います。

 

 

 

何か変だよ、SNS!?


ガラケイからスマフォへ、、、
でも何が変わったのだろう??

口伝えや印刷物⇒ビジュアルメディア⇒デジタルデータの共有
情報伝達の経過や手段が変遷し多岐に渡ることで、
私たちの生活はその情報が増え、その選択も素早く出来るようになった。
それは絶対的な時短とメンタル的余裕へと繋がっていたはず、、。


でも現代でも幾ら最新の情報を得て、効率的に活動しているつもりでも、
生活者の大半が何かに戸惑い、不安感は拭えないのはなぜだろう?

古くはポケットベルが、電話回線のデジタル化、通信自由化に呼応するように
出現した。1990年代に急速に普及したが、まだこのツールは発信者からの
一方向の伝達手段。情報とまでは呼べない、ただ単なる個人の行動と意思の伝達。


でもデジタル化された暗号のような受信表示を理解することで得た、
新たなコミュニケーションのあり方が話題性となった。
情報のデジタル化の創生期と言ってもいい。
このツールの効用は個々の意思伝達の時間(発信者から見て)を短縮させ、
生活全般の時間的有効性を高めたのは間違いない。

 

その後、PHSや携帯の出現でようやく情報の詳細な双方向のデジタル的伝達が始まり、個人対個人から多対多、一度にあらゆる方向への通信(ネット状通信)が可能になった。

表現を変えれば、点対点の世界から、面対面のネット世界へ移行した。こういった情報通信で得たものは、即座に世界のあらゆる情報を収集しより分ける魔力。それも【検索】という魔法の杖で、、、。

 

でもこの魔法は私から見れば、「無駄」という従来の学習努力を省略した結果、

非常に打たれ弱い人間社会をもたらしたのでは、、とも思う。

 

確かに利便性と時間的効率性をSNSは生み出し、経済社会の推進には大きく貢献している。

でも人間は生き物だから「学習」という過程をもし省略してしまえば、

「結果」ばかりを並べられて、お好きなものをどうぞ(^^♪、、、という塩梅で

「過程」という人間として汗を流すべき大切な要素を見過ごしてしまう危険性がある。

 

昨今、あまりにも理不尽な事件が収まらないのは、人間社会には一番大切な

「理性」が貧弱になっているためか、、と思う。

 

この「理性」は人間社会の精神性の要で、これは個々日々の暮らしで

喜怒哀楽、感動、感覚的刺激、友愛、共感など様々な感情的事象から地道に生み出されていくものだ。

これは誰から学習するとか訓練されるとかいうものではなく、

自身の心情に気の遠くなるほどの時間を経て体得する観念だ。

つまり「自身の心の汗と涙の蓄積」の化身、、、。

 

なるほど社会を営む上ではリスクはできるだけ少ないほうがいいし、失敗も無いにこしたことはない。苦労も無いに越したことはない。

SNSが全て理性の貧弱化の元凶とまでは言えないけれど、大きな一因なのは確かだと思う。

私自身も日々の生活でSNSは大いに役立っている。

「ブログサイトでSNSの悪口なんて酷い中傷だ、、何を考えているんだ、、。」

、、、とかいう批判は覚悟の上だけど、

これからもSNSが人間社会には貴重なものだから、自己批判の気持ちも込めての一矢。

皆さんSNSはあくまで道具で、食材でいえば具材であって定食ではありません。

つまりその一つ一つはすぐに食べられないもので、いろんな具材を揃え、

そこから自身の脳と心で判断し情報を『昇華』する道具です。

 

でも万人が見てもはっきりと結果が理解できる事象、

例えば特定の場所、歴史的事物や人物などは端的にはそのものとして捉えていいと思います。

情報社会の指標は人間社会の充実と精神的高揚にあるはずです。

SNSは人間の道具であって教科書ではありません。

 

物事の理解力を高めるには自信の経験の積み重ねが肝心。

決してSNSを頼り切ってはいけない!!